“ルール”は絶対か?それともあくまで手段なのか?―根本の立場が違えば議論にはならない
出張やらその他の仕事やらでブログ更新できない間にまた革命的非モテ同盟furukatsuサンからコメントが。
こういう事を書くのもいいけど、本当は非モテ理論について書きたい。
ってことだったんでてっきり収束希望かと思ってたんですが、違ったみたい。お待たせしてすみませんね。
でもせっかくエントリ起こして再反論、というわりにはやっぱり内容的に全然深化がみられないのがかえすがえす残念。理屈はどうあれ結局は「決まりなんだから守らなきゃいけない」ってところから一歩も出てないでしょ。その角度で斬り込むかぎり少なくとも私の心には響かないし、きっかけのエントリを起こされた覚悟サンにも、それをとりあげたkanoseさんにも響かないと思うんですよね。「逃げるなよ」とか言われてもこれでは・・・。
問題の場面では“ルールの破綻は既に明白”で、“ルールを破らずには目的を果たすこと(この場合は人命救助)が出来ない”ことは確定してるわけですよ。
だからと言っても“悪法も法”なわけで、使命遂行は即ち自らへの処罰を意味する。その自らへの不利益をおしてまで他者を救おうとする人たちをどう評価するか。そこが問われているわけで。
furukatsuサン自身も認めるように“自分や自分の属する集団の利益といった事を鑑みれば「見殺しにすべきではない」”というのが一般の認識でしょう。でも現状のルールはそれを許さないわけですよ。で、現状に合わなくてもルールがそうなっている以上従うべきだ(この場合は見殺しにすべき)というのがfurukatsuサンの主張。
でもルールってもともとなんのためにあるんでしょうね。私の認識ではそれは“自分や自分の属する集団の利益”のためなんですよ。そして件の海自幹部を支持する人たちの認識も多分同じ。統計をとったわけじゃないですが、問題の事例に限って言えば国民の過半数は支持に回るんじゃないでしょうか。あくまでも“自分や自分の属する集団の利益”を守る行動なわけですからね。
だからと言って無条件にルール違反が許されるわけでも支持されるわけでもないのは当然のこと。現場の人間がそれは一番わかってる。furukatsuサンは「それを煽った人間の責任はどうか」などと私からすればかなり奇妙な言い回しをされてますが、その程度の「煽り」で必要もないのに自分と家族、ともすれば部下の生活まで犠牲にしかねない決断をする人などいませんよ。それなりに責任のあるポジションについた経験のある人にとってはこれは自明のこと。わざわざ言うまでもない。
それに、一つ前のエントリで取り上げた教育現場にしても他の現場にしても、自分自身のことになると「ルール上ムリ」という理由で本来期待される役割まで回避する「賢い」人が圧倒的に多いのが現状です。だからこそ、使命のためなら自らの不利益をおしてでも行動する「馬鹿」が、少なくともそれで救われる人にとっては貴重なわけで。煽りがどうのとかいう心配は無用でしょ。
もっとも「実際に襲撃を受けるという想定は無意味」などというfurukatsuサンが私の考えに納得するなんて私自身思ってませんけどね。このお話は、私の「“人命よりも規則が優先。たとえ民間人が攻撃を受けていても自衛隊は見殺しにすべき”か?」という問いかけにfurukatsuサンが「見殺しにしなければならない」と答えた時点で本当は終わってるんです。
ルールと現状が噛み合わない場合にどちらを優先すべきか。根本的な価値観が異なるわけですから議論など成り立ちませんよ。お互いに向かうべき目標が違うわけですからね。
でも、それでいいんじゃないですか?
多様な価値観が存在してこその民主社会ですから、別に統一する必要なんてありませんしね。それにfurukatsuサンにしても私にしても、いくら激論したところでその声が国政を左右するなんてことはありえないわけですし。

